撮って見た 其の732014/05/12 23:23:00

二人静(フタリシズカ)

撮って見た 其の73-1
以前に「一人静」を取り上げたので、此方も扱わなくては片手落ちだろう。 センリョウ科の花らしく、一人静と同じく穂状花序に付く花には花弁も萼も無い。有るのは3本の雄蕊と雌蕊(子房)だけだ。 花糸(雄蕊の柱の部分)が白い花弁にも見えるが、葯や雌蕊は内側に巻き込まれて居て見えない。 穂状花序の本数が2本なので「二人」なのだが、最近は一人とか五人なんて株も珍しくは無い。 
撮って見た 其の73-3
滅多に気付かないが、初夏に開花(フォトは「白岩先生の植物教室」より)する。 濃い緑色に結実(核果:多水状で単一種子)した開花花序は起立を維持せずに、だらしない、いや、しどけない姿で葉に横たわる。 一方、開花期後の夏から秋に掛けて、葉腋から下垂する閉鎖花を持つ短い花序を(小さな葉を付けた茎頂から)下垂する。 更に地下茎でも増えるので、繁殖力は名前に似ずに旺盛で有る。 尚、葉序(葉の付方)を輪生とする記事も有るが、十字対生が正しく、先端部の接相(狭い節間)を見誤った物と思われる。

撮って見た 其の73-2
花名の「二人」とは静御前と彼女の亡霊の舞姿を指す。 江戸時代中期に寺島良安に依って編纂された「和漢三才図絵」(105巻も有る百科事典)には、次の記載が有る。 「謡歌に言う。静女の幽霊が二人と為りて、同じく遊舞す。此花二朶相並びて艶美なり。故にこれに名づく」 此の謡歌が能楽の「二人静」で有る。 あらましは、以下の通り。

静御前に所縁の有る吉野山の勝手神社の神官が、正月七日の神事の為に若菜を摘みに行かせた菜摘女(なつめ)に、野に現れた静御前の霊が憑く。 神官が神社に戻った菜摘女の様子が変わって行くのに気付き、憑人の名を問うと「静」と答える。 神官が求めると、菜摘女は嘗て静が神社に収めた衣装を纏い舞い始める。 すると、静御前の霊が現れ、影の様に寄り添って舞い、義経の吉野落ちの様子や鎌倉での出来事を物語って、神官に弔いを頼んで消えて行く。

父の友人だった能評論家氏からそんな話を伺った様な記憶が有る。 其頃から我家の庭にも此の花が咲いて居た。 「一人静」は消えて仕舞ったが、「二人静」は亡霊の数を増やして未だに繁茂して居る。 頼朝の前で「しづやしづ…」と舞った行(くだり)は、苧環(おだまき)の記事に書いた通りだが、此の様な「花繋がり」に出会うのは楽しみのひとつだ。 其時にも記したが、静御前に就いては調べたい事が沢山有る。

都岐禰久佐/豆岐禰久佐(ツキネグサ)の古名が有り、「和漢三才図絵」よりも古い、「本草和名」、「倭名類聚鈔」等にも記述が見られる。 斯くも古来から日本に生育して居た様で、万葉集にも「つぎね」の長歌(作者未詳)が一首有る。 或る結婚披露宴で主賓の方が、此の歌を紹介されて以来、記憶に留めて居る。 花言葉は、「いつまでも一緒に」


つぎねふ 山背道(やましろぢ)を
他夫(ひとづま)の 馬より行ゆくに
己夫(おのづま)し 徒歩(かち)より行けば
見るごとに 哭(ね)のみし泣かゆ
そこ思(も)ふに 心し痛し
たらちねの 母が形見と
我が持てる 真澄(まそみ)鏡に
蜻蛉領布(あきづひれ) 負ひ並(な)め持ちて 馬買へ我が背

反歌
泉川 渡瀬(わたりせ)深み 我が背子(せこ)が
旅行き衣 濡れ漬(ひた)むかも

真澄鏡 持てれど我は 験(しるし)なし
君が徒歩(かち)より なづみ行く見れば

返歌
馬買わば 妹(いも)徒歩ならむ よしゑやし
石は踏ふむとも 我(わ)は二人行かむ


流石に現代語訳は畏れ多く、林龍三氏の「万葉歳時記 一日一葉」を参照させて頂いた。

山背(京都)道をよそのご主人は馬で行くのに、
わたしの夫は歩いてゆくので、
見るたびに泣けてきます。
それを思うと心が痛みます。
母の形見として私が持っている真澄鏡と
蜻蛉領布(スカーフ)を持って行き、馬をお買いなさい、あなた。

泉川の渡瀬が深いので、馬に乗っていない私の夫は
旅の衣服が濡れてしまうでしょうか。

真澄鏡を持っていても私にはその甲斐がありません。
あなたが歩いて、苦労して行くのを見れば。

馬を買ったら、私はよくても妻は徒歩だろうよ。しかたないさ、
石を踏む辛さがあっても、私は二人で歩こうと思う。

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